2025.11.09
犬の「僧帽弁閉鎖不全症」から「肺水腫」へ──早期発見・適切管理で大切なこと
はじめに
中〜高齢の小型犬に多く見られる心疾患として、僧帽弁閉鎖不全症(Mitral Regurgitation:以下「MR」)があります。MRが進行すると左心房・左心室に容量負荷(volume overload)がかかり、最終的には左心不全を引き起こし、さらには肺に水が貯まる「肺水腫」という緊急状態を招くことがあります。今回の記事では、MR→肺水腫に至るメカニズム、兆候・診断・治療・飼い主様ができるケアポイントを、獣医師目線で整理いたします。
僧帽弁閉鎖不全症(MR)とは何か?
定義・発生メカニズム
犬の僧帽弁閉鎖不全症とは、左心室から左心房へ血液が逆流する状態を指します。特に小〜中型犬において多く見られるのが、変性性僧帽弁疾患(Myxomatous Mitral Valve Disease:MMVD)です。 pmc.ncbi.nlm.nih.gov+2mdpi.com+2
弁尖(べんせん)や腱索(けんさく)が変性・肥厚・断裂することで、僧帽弁がきちんと閉じず、左室から左房への逆流(レグルギテーション)が起こります。結果、左房・左室に容量負荷(volume overload)がかかり、左房圧が上昇、さらに左室壁の拡大・機能低下へと進むことがあります。 mdpi.com+1
この左サイドの心臓負荷が続けば、やがて「左心系心不全(Left‐sided Congestive Heart Failure)」を起こし、典型的には肺水腫という形で症状を呈します。 Vca+1
なぜ小型犬に多い?
MMVDは特に小型犬に発生頻度が高く、特定の犬種(例:キャバリア・キング・チャールズ・スパニエル)では遺伝的素因も示唆されています。 mdpi.com
加齢に伴って進行することが多いため、5〜8歳以上の小型犬では定期的な心臓検査が推奨されます。
症状・進行段階
MRの初期段階では自覚症状が乏しく、「健康診断で心雑音を指摘された」程度にとどまることがあります。Vca
しかし、病気が進むと以下のような症状が見られます:
- 散歩中・運動中にすぐに疲れる、息切れしやすい
- 乾いた咳(特に夜間・就寝時)
- 呼吸が速く浅くなっている(頻呼吸)
- 食欲低下・元気がない
- 体重減少・腹水・むくみ(進行例)
これらは「心臓に負担がかかっている」、あるいは「心不全の兆候」である可能性があり、早めの診断・治療が重要です。
肺水腫とは何か?
肺水腫の定義・原因
肺水腫とは、肺の毛細血管から肺胞・間質に液体がしみ出てしまい、ガス交換が阻害される状態です。左心系の心不全が原因で起こる「心原性肺水腫(cardiogenic pulmonary edema)」が犬では典型的です。 scispace.com+1
MRが進行して左房圧・左室内圧が上昇すると、肺静脈~毛細血管への還流抵抗が高まり、水分が肺に漏出+肺胞内に貯まるという一連の流れが発生します。 Vca
臨床的な特徴
肺水腫が発症すると、次のような緊急症状となることが多いです:
- 急速な呼吸数増加(頻呼吸)、呼吸困難(開口呼吸、腹式呼吸)
- 咳・泡状の鼻水、血の混じることもある
- 青紫色(チアノーゼ)になった舌・歯茎
- 横になれず、座ったまま・伏せたままで苦しそうにしている
- ぐったり・意識低下
緊急性の高い状態であり、早急な対応が必要です。
MRから肺水腫へ至るプロセス
左房~左室負荷 → 肺うっ滞
MRにより左房に逆流があると、左房圧が上昇し左室にも容量負荷がかかります。この過程で左室拡大・左房拡大・左心機能の低下といった変化が出てきます。 pmc.ncbi.nlm.nih.gov+1
左房圧・肺静脈圧が高まることで肺うっ滞が起こり、間質性変化(肺胞壁・間質の浮腫)から肺胞内浮腫(肺に液体が溜まる)へと移行します。 avmajournals.avma.org+1
この「肺水腫」の状態になると、呼吸困難・低酸素・ショック・死亡に至るリスクが高まります。
肺水腫発症を左右する因子
- 左房・左室の拡大度、逆流量の大きさが影響します。 pmc.ncbi.nlm.nih.gov+1
- 合併症として肺高血圧症(Pulmonary Hypertension:PH)が併発していると、予後が悪化します。 mdpi.com+1
- 温度環境や気候変化も影響する可能性があり、ある研究では気温中間期(極端に寒冷・高温でない時期)に発症した犬の方が予後がやや悪かったという報告があります。 PLOS
診断の流れ・ポイント
飼い主様への問診・身体検査
まず、次のような問診ポイントを意識します:
- 咳が出るか/いつ出るか(夜・就寝中・運動後)
- 呼吸が速い・浅いか/元気・食欲・散歩の様子いつもと違うか
- 体重変化・むくみ・腹水の有無
身体検査では、心雑音(特に僧帽弁逆流を反映)、拍動数・呼吸数、肺の聴診(肺水腫では湿性ラ音・クラックル)などを確認します。
画像検査・血液検査・心エコー
- 胸部レントゲン(X線):心拡大(左房・左室拡大)、肺血管陰影の増加、肺間質/肺胞パターン(肺水腫の典型所見)をチェック。特にMRによる肺水腫では、肺尾葉(後葉)優位の分布が多く観察されるという報告があります。 avmajournals.avma.org+1
- 心エコー(超音波):僧帽弁逆流量・左房サイズ・左室拡大・左室機能・トリコルチッド逆流などによる肺高血圧評価などが可能です。 pmc.ncbi.nlm.nih.gov
- 血液検査/生化学・電解質・BNP/NT-proBNP:心不全マーカーとして利用されることもあります。
- 血圧・酸素飽和度(SpO₂):肺水腫では低酸素傾向。
ステージ分類・予後評価
例えば、American College of Veterinary Internal Medicine(ACVIM)コンセンサスガイドラインでは、MMVDの犬を無症候(ステージB)、心拡大あり(B2)、症状あり(C)、難治性(D)へと分類しています。 pmc.ncbi.nlm.nih.gov
肺水腫発症(左心不全症状あり)=ステージCと捉えられ、早期介入が予後改善に重要です。
治療・管理のポイント
緊急治療(肺水腫発症時)
肺水腫は緊急対応を要するため、次のような治療が行われます:
- 酸素投与:低酸素状態の改善のため。 scispace.com
- 利尿剤(例:フロセミド)速やかな使用で浮腫・肺水腫の体積負荷軽減。 scispace.com
- 血管拡張剤・硝酸薬等:肺うっ滞を軽減するために用いられることがあります。 scispace.com
- 心拍出量改善薬(強心薬)等:左室機能低下がある場合には考慮されます。
これらによって呼吸状態を安定させたうえで、基礎心疾患(MR)の治療・管理に移行します。
慢性管理・心疾患へのアプローチ
MRに対しては、以下のような戦略があります:
- 利尿・血管拡張・強心薬といった薬物療法
- 食事管理・体重管理・運動制限・ストレス軽減
- 手術的アプローチ:近年、犬における僧帽弁形成術(MVP:Mitral Valve Plasty)も報告されており、良好な長期予後が示唆されています。 onlinelibrary.wiley.com+1
- 薬物の中では、ピモベンダン(Pimobendan)を含む併用療法が、生存期間延長・肺水腫再発率低下のエビデンスがあります。例えば、197例を対象とした研究では、通常量ピモベンダン群で中央値生存期間334日、従来療法群136日という結果が出ています。 jstage.jst.go.jp
- フォローアップ・定期検診が重要:心エコー・レントゲン・臨床徴候・飼い主様からの観察を通じ、早期変化を捉えましょう。
✅ 最近の注目できる研究トピック
1. 肺静脈径がステージ分類・予後マーカーになりうる
例えば、Cavalier King Charles Spaniel(CKCS)を対象に、MMVDステージ(ACVIM分類)ごとに「肺静脈(PV2)径」を計測した研究があります。
- 健常対照 → ステージB1 → B2 → C と進行するほどPV2径が有意に増加していた。
- PV2径 12.8 mmが「B2からCへの識別」において感度57%、特異度93%というカットオフが提案されています。
- つまり、左房・左室の拡大や逆流量だけでなく、「肺静脈」という“ちょっと違うアプローチ”もリモデリング・進行度評価の補助指標になりうる、という点が興味深いです。
- 臨床的には「心エコー所見+肺静脈径」という組み合わせを検討する意義あり、特に“そろそろ症状出るかも”と判断を迷っている症例で参考になる材料となる可能性があります。
2. 予防的な薬物投与が、その後の生存に必ずしも良影響を与えない可能性
予防的・早期段階(無症候・軽度)での投薬が「その後の肺水腫発症・心不全転換を遅らせる/生存期間を延ばす」という仮説は、これまで支持されてきました。
しかし、最近の研究によると、以下のような結果が報告されています:
- 小型犬を対象に、MMVDで初めて心不全(CHF)を発症した症例を「発症前に心臓薬(ピモベンダン等)を少なくとも5週間以上投与されていた群(プレトリート群) vs 投与されていなかった群」を比較。
- 結果、プレトリート群の方がむしろ生存期間中央値が短かった(212日)に対し、未投与群が481日という結果。p=0.028で有意差あり。 PubMed
- 解析にて“プレトリート投与”自体が独立予後因子ではなかったが、「腱索断裂」や「LA/Ao比」「LVIDDN」などが予後不良と関連していた。 PubMed
- 解釈としては、「早めに薬を開始したから良くなった」のではなく、「逆に薬を先行していた子=進行が早かった・負荷が大きかった群」の可能性があるというバイアスの影響が考えられます。
- 臨床上のインパクトとしては「“早期に薬を置けば安心”という単純な考え方は要注意」というメッセージが出てきた、という点です。もちろん薬が不要というわけではなく、どのタイミング・どの負荷レベルで開始すべきかを改めて考える材料となります。
3. 僧帽弁形成術(MVR)後のリモデリング改善・肺高血圧改善の報告
外科的修復(MVR:僧帽弁形成術)が犬でも徐々に実施されてきています。最近の研究では以下のような内容が報告されています:
- PH(肺高血圧症)を併発していたMMVD症例にMVRを行ったところ、術後に 推定肺動脈圧(=PH指標) が有意に低下、臨床症状改善をみたというデータ。
- また、「逆流量が減少」「左室内径・LA/Ao比の改善」なども術後に認められており、心拡大・左室壁張力・容量負荷の改善が視覚化されています。
- ということから、MMVDが進行した症例でも「“薬だけ”ではなく、外科修復という選択肢を視野に入れる意義」が増してきています。特に“肺水腫が出る前の段階で弁修復を検討すべきか”という議論が活発になりつつあります。
- このトピックは今後当院でも“手術紹介”含めて連携可能な施設の検討という意味で、非常にホットです。
4. 臨床徴候として「咳=肺水腫」と安易に紐づけてはいけない可能性
従来、MMVDで咳をしていると「肺水腫/うっ滞性肺疾患を疑う」とされることが多かったですが、最近の報告で“重度左房拡大は咳の発現に関連するが、必ずしも肺水腫が原因ではない”というデータが出ています。 avmajournals.avma.org
例えば、左房径が非常に拡大していても肺水腫が確認されなかったケースがあり、逆に軽度でも咳が出ていた事例が報告されています。
飼い主様ができること(ケア&早期発見)
- 定期健康診断を受けましょう:特に高齢・小型犬・心雑音を指摘された子は、定期的な心臓検査(心エコー・レントゲン)をおすすめします。
- 咳・呼吸変化・元気・食欲の変化を見逃さない:咳が増えた、散歩で疲れやすい、夜間呼吸が速い/浅いなどの兆候が出たら早めに受診を。
- 体重管理・適正運動・禁煙環境:肥満・過剰運動・ストレスが心臓に負担をかけるため、適正体重・室内環境・定期的な軽い運動が望ましいです。
- 薬・食事の継続:既に心臓病と診断されている場合、獣医師の指示通り薬を継続し、栄養・塩分管理・水分管理を含めた総合的ケアを行いましょう。
- 緊急時のサインを把握しておく:急な呼吸困難・泡状の咳・開口呼吸・チアノーゼなどが見られたら、速やかに受診・入院の可能性を考えてください。
よくある質問(FAQ)
Q1. 心雑音=すぐに肺水腫になる?
いいえ。心雑音があってもすぐに肺水腫になるわけではありません。雑音はMRの可能性を示すサインのひとつですが、進行程度・逆流量・左房サイズなどが関与します。定期検査が重要です。
Q2. 薬を飲めば治る?
MR自体を完全に治す(逆流をゼロにする)薬療法は現在のところ限定的です。しかし、薬で逆流による影響(左房拡大・左室負荷)を遅らせ、肺水腫発症を防ぎ、生活の質(QOL)を維持することは可能です。手術適応となるケースもあります。
Q3. 手術を受けるべき?
逆流量が多い・左房・左室が明らかに拡大している・治療抵抗性・若くて適正体重の子などでは、僧帽弁形成術(MVP)の選択肢も検討されます。治療方針は個体差・家族のご希望・コストなどを考慮して決める必要があります。
Q4. 咳=必ず心臓原因?
必ずしもそうではありません。呼吸器疾患(気管虚脱・気管支炎・肺炎)、アレルギー、肥満なども咳の原因になります。「心雑音がある+咳」など複数サインが重なった場合には心臓原因の可能性が高まります。
まとめ
犬の僧帽弁閉鎖不全症(MR)は、特に小型・高齢犬において非常に頻度の高い心疾患です。そして、MRが進行すると「肺水腫」という緊急かつ重篤な状態へ移行するおそれがあります。
しかし、**「早期発見・定期管理・飼い主様の観察・適切な治療」**があれば、発症・進行を遅らせ、愛犬のQOLを維持しながら長く快適に過ごすことが可能です。
当院では、循環器の専科の先生と連携をとりながら、最適な治療のご提案が可能です。
もし「最近咳が出る」「散歩で疲れやすくなった」「夜、呼吸が速いようだ」などの変化を感じたら、ぜひお早めに動物病院にご相談ください。